崖っぷちからのはがき
崖っぷちからのはがき POSTCARDS FROM THE EDGE
著者 キャリー フィッシャー
訳者 小沢 瑞穂
出版社 彩古書房
出版日1989年11月20日
何かへの依存を断ち切りたいと思っている女性に、ぜひ読んでもらいたい。
”レイア姫”ことキャリー・フイッシャーが書いた、本当に愛くるしい小説。
マリクレール1988年8月号
p355 斉藤英治
(本書の解説はこのマリクレールの記事に加筆したもの)
エイズ騒動の陰に隠れてとかく忘れられがちだが、今のアメリカ社会の最も深刻な悩みの一つは麻薬ドラッグではないだろうか。コカイン、ヘロイン、LSD、エクスタシー等々、さまざまな種類のある、あの甘美な薬クスリのことだ。
たとえば、1980年代にベストセラーとなった二冊の青春小説、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(新潮社刊)とブレッド・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』(中央公論社・近刊予定)―を読んでいると、どちらの小説でもドラッグが重要な役回りを演じていることに、読者は驚かざるを得ない。片やニューヨーク、片やロサンジェルスと舞台こそ違え、どちらの小説の主人公もともに麻薬による一種の棒が状態の中で虚ろに生きているのだ。彼らにとってコカインやヘロインは、ちょっと大袈裟な言い方をすれば、僕らにとってのコーヒーや紅茶のような日用必需品になっているのである。
マリクレール1988年8月号
p355 斉藤英治
(本書の解説はこのマリクレールの記事に加筆したもの)
エイズ騒動の陰に隠れてとかく忘れられがちだが、今のアメリカ社会の最も深刻な悩みの一つは麻薬ドラッグではないだろうか。コカイン、ヘロイン、LSD、エクスタシー等々、さまざまな種類のある、あの甘美な薬クスリのことだ。
たとえば、1980年代にベストセラーとなった二冊の青春小説、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』(新潮社刊)とブレッド・イーストン・エリスの『レス・ザン・ゼロ』(中央公論社・近刊予定)―を読んでいると、どちらの小説でもドラッグが重要な役回りを演じていることに、読者は驚かざるを得ない。片やニューヨーク、片やロサンジェルスと舞台こそ違え、どちらの小説の主人公もともに麻薬による一種の棒が状態の中で虚ろに生きているのだ。彼らにとってコカインやヘロインは、ちょっと大袈裟な言い方をすれば、僕らにとってのコーヒーや紅茶のような日用必需品になっているのである。
あるいは、ボブ・ウッドワードが書いた『ワイアード』を読んでみたまえ。あれは1982年に麻薬の過剰摂取オーヴァードースで急死した俳優ジョン・ベルーシの死の謎を調査したルポルタージュだが、あの本を読んでいると、当時実に多くの俳優たちがベルーシと同じようにクスリ漬けになっていたことに驚かされる。ロバート・デ・ニーロ、ジャック・ニコルスン、チェビー・チェース、ダン・エイクロイド等々・・・早い話、誰がベルーシのような死に方をしてもおかしくはなかったのだ。まあ、ハリウッドといえば昔から「悪徳の都」と言うイメージをつちかってきたとは言え、ぼくとしてはこの事実にやはり驚かざるを得ない。
それにしても、いったいなぜドラッグがそれほど人を魅惑するのだろうか?―僕に言わせればそれは麻薬が人を心地よい奴隷の状態にしてくれるからではないかと思う。ドラッグをやるということは、何か強力な力に自分をすすんで支配させることの快楽に溺れることに他ならない。そんなもののどこが楽しいわけ?と首を傾げる人は、世の中のメカニズムに鈍感と言える。人間にとっては、自由でいるよりも何かに隷属している状況のほうがたいていは楽なのだ。ある詩人は「私は自由に生き始めた、それは苦痛だ」と言うフレーズを残したが、ドラッグとはその自由の苦痛を、人を隷属させることで和らげてくれる薬だとも言える。
そういう意味で、ドラッグに溺れることは主体性を放棄することの快楽であり、逆にドラッグを断つことは主体性を回復することの苦痛だと、やや図式的に言うことも可能だろう。としてもしもマキナニーやエリスの小説が80年代のアメリカの精神風景をある程度代弁しているとしたら、いかに彼らが主体的に生きることに苦しんでいるかを示していると言えるだろう。
さて、ドラッグについて長い前口上を書いたのは『スターウォーズ』シリーズのレイア姫役で知られる女優キャリー・フィッシャーが初めて書いた小説『崖っぷちからの手紙』が、この主体性の回復をめぐるドラッグ小説になっているからである。
もっとも、この作品はハリウッド女優の自伝的小説としてもゴシップ的興味がつきないし、またその抱腹絶倒の笑いだけでも単純に面白い小説だから、まずはそっちの魅力について触れておくのが順序だろう。
この作品が彼女の自伝的な作品だというのは、彼女自身が崖っぷちに立っていたことがあるからである。キャリー・フィッシャーはかってベルーシの相棒のダン・エイクロイドの恋人だった時期があり、一時期、まちがいなく麻薬中毒だった。ウッドワードに『ワイアード』にも、彼女がベルーシらとLSDをやっている光景が記述されている。だから読者はこの小説を、あの6年前のハリウッドのスキャンダルを思い浮かべながら読むこともできるはずだ。
しかし、『崖っぷちからの手紙』はそういうゴシップ的興味を忘れて読んでも、というか、その下世話な興味を忘れてさせてしまうほど面白い。物語は、ドラッグの過剰摂取のために一時は病院の緊急治療室にまで運ばれた女優スザンヌ・ヴェイルが、ドラッグ専門のクリニックで麻薬を絶っているところから始まるが、ここに集まった人々の描写なんてもう最高におかしいのである。特に、意思の弱い脚本家が禁断症状に耐えようとする、その意識の流れを一人称でえんえん綴ったところなんて、ほとんど初期の筒井康隆の小説のように抱腹絶倒だ。ぼくはキャリー・フィッシャーがこんなにユーモア感覚を持っていたなんて夢にも思わなかった。『崖っぷちからの手紙』は、ちょうどノラ・エフロンの『ハートバーン』を思わせる、完成度の高いユーモア小説になり得ているのだ。
しかし、何にもまして素晴らしいのは、麻薬への依存を断つことで少しずつ主体性を回復してゆくヒロインの心細さを、実に繊細に描いていることだろう。ぼくも3ヶ月間タバコをやめていたことがあるので良くわかるのだが、何か(あるいは誰か他人)への依存を断ち切ることは、辛い。苦痛だ。ときには悲鳴を上げたくなる。その「自由になることの苦痛」がここに繊細に記録されているのだ。何かへの依存を断ち切りたいと思っている女性には、ぜひ読んでもらいたい小説だ。
もっとも、スザンヌ・ヴェイルは、麻薬を断った後、まるで代償の刺激を求めるかのようにいったんプレイボーイのプロデューサーと屈辱的な恋に陥る。やっぱり、何かへの依存とはすぐに断てないものなんである。やっぱり、何かに隷属している状態の方が人間は楽なのだ。だが、しばらくたつと、映画スタッフの家族的な思いやりや祖父母や友人の忠告の中でこの最後の依存も断ち切り、心細げではあるけれど、一人歩きをし始める。そしてそんな彼女の前に、待ってましたとばかりに、やさしい男性が現れる。まるで絵に描いたようなハッピーエンド。こういう終り方を、文学的でないと言って馬鹿にしてはいけない。ハッピーエンドの小説があったっていいではないか。
もちろん、麻薬と男への依存を断ち切って自立していくヒロインを描いたこの小説は、多分に図式的と言うか、精神分析の理想的な治療を見てるようなところがある。もしも谷崎潤一郎や山田詠美がこの小説を読んだら、反論したくなるかもしれない。主人=奴隷の隷属的な関係こそ恋愛の極致である、というのが彼らの小説の一つのメッセージなのだから。隷属のない男女関係なんてつまらないではないか・・・。ぼくにもその気持ちはわかる。だが、ぼくはあえてこの小説を支持したい。というのも、このヒロインの前に最後に現れる男性というのが、「空気みたいに存在感の希薄な文筆家」で、自分で言うのもなんだけれど、何かぼくにちょっと似ているのだ!(実際には今の夫のポール・サイモンのことなんだろうけど。)
キャリー・フィッシャーは、歌手のエディ・フィッシャーと女優デビー・レイノルズの間に1956年に生まれた。ぼくとほぼ同世代の女優だが、実を言うとぼくはこれまで彼女を女優としていいとは一度も思わなかった。しかし作家としての彼女は、素晴らしい。もう女優なんて廃業してどんどん小説を書いてほしいと思う。『崖っぷちからの手紙』はそう思わせるくらい愛くるしい小説なんである。
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